第254号 1月13日
今年もたくさんのことを学んでいます。
今日から、本務の研修スタートです。昨年は、7時過ぎに着いて既にずらーっと並んでいたので、今年は、少し早めて出たら、学校に着いたのが、6時半少し前。今年は前から4番目という快挙(?)でした。私は何でも早く行くので、その順位に満足していたのですが、ちょっと修治先生には悪い事をしたかなって反省です。明日はもう少し遅く出ることにします。
今年も講堂で授業を見ました。6年生の算数「ともなって変わる2つの量」そして、3年生の算数「はしたの数」です。3年生の授業は通路までもびっしりで、身動きができないくらいの先生方の数でした。
6年生の授業では、子どもたちが「わかる」ということは、自分の言葉で説明できることであるということを大切にすることを学びました。授業で、「分かった人?」っていうと子どもたちはたくさん手をあげますが、「どういうことがわかったの?」と聞くと、だいぶ手が下りてしまうという現実があります。知識は、相手の話した内容を他の誰かに自分の言葉として言えた時、初めて使える知識(知恵)になるというものです。それともう一つこれから授業で使っていたい言葉を学びました。「こんな風に考えた人の気持ちがわかる人?」算数は答えが一つの時が多いので、合っているか、間違えているかということになりますが、間違えた子に対して、どういう考え方をしたのか、その気持ちをわかってあげるということです。
たとえば、「公園で子どもたちが遊んでいます。あとから9人来て合わせて15人になりました。最初に何人いたでしょう。」という問題で、15+9と答えた子に「違います。」ではなくて、みんなで「〇〇さんの気持ちがわかる人?」と聞いてあげることによって、間違えた子も気持ちが楽になります。
もう一つの算数では、初めて小数が出る場面でした。とにかく活発な子どもたちで、半端な数をどのようにあらわすか、次々と五千人ほどのお客さんの前で、ワイヤレスマイクを握りながら、自分の考えを発表します。教えているのですが、「子どもたちが学んでいる」という表現がぴったりでした。とかく教え(こみ)がちですが、子どもが目を輝かせて食いついてくる授業を見て、自分の授業にも生かしていきたいと思います。それほど、意見が出ましたので、授業をされた先生が考えたものの途中で時間となってしまいました。その先生がおっしゃっていました。授業は指導案通りにやるのがいい授業ではなくて、子どもの考えや発想によっては、方向が変わっていくことも、途中で終わることもいくらでもあるということでした。とかく、見られる授業では、自分の思った事を最後の方を強引にひっぱりながら、やってしまいがちですが、子どもの学びを重視した心に残る言葉でした。
午後からの総合的な学習の発表では、昨年私が一番感動した「百万回生きたねこ」の語りに関連して、子どもたちが「語り」公演会に出かけた報告を聞きました。給食のお残しが多いことに頭を悩めた二瓶先生が、世界の食料事情を話し、3秒に1人が飢餓でなくなっていることを子どもたちは知りました。子どもたちは、その子たちを救おうとし、彼らが得意な語りの公演を開いて、入場料を寄付しようとしました。ただし、入場料はお金ではなく、使用済みのハガキや切手に限りました。何校か回って3年生の最後には5万円を寄付する事ができたという話でした。子どもたちが後ろで待機していたのですが、時間でその途中で出てきました。
そのあと、阿久澤先生のところへ向かいました。