第224号 1月19日

 恩師の謝恩会

 みなさんは、「師」と呼べる方がどの位いらっしゃいますでしょうか。私は小学校の時から、「あの先生と出会えて今がある。」という先生が何人かいます。そして、教員になってからも、「今の自分はあの先生の影響を強く受けている。」というのがあります。
 私は、今週(今日は8日)は、毎日、夕方まで学校で仕事をして、夜は大学で、恩師の先生の退官に関わる記念事業の準備をしています。
 青木剛士教授、私が所属していた教育心理学教室で担任してくださった先生です。青木先生の専門は心理学ですが、私とは、電気関係のこと、そして趣味が同じくアマチュア無線ということもあり、親しくさせていただいておりました。授業では緊張感があり、遅刻をしたり、おしゃべりをしていたら大学生といえどこっぴどく叱られ、私たち同期九名はいつも会うときは自然と背筋が伸びて緊張していたのを覚えています。
 一年生の後半、私は、電気つながりから、コンピュータをさわってみないかと誘われ、初めて、キーボードに触れました。当時のコンピュータは、操作は全てキーボード(マウスなどない)、色は出ない、表示は、英語とかたかなと数字のみ、計算をさせるには、全て自分でプログラムを組まなければならないという今とは全然違う環境でしたが、私は、すっかりこのコンピュータ(当時はマイコンとよく言っていた)のとりこになってしまいました。
 青木先生と統計に関わるプログラムを一緒に開発したり、時には雑誌のゲームプログラムをインプットしたり、他の研究室のコンピュータをさわりに連れていってもらったりしました。
 私が今、コンピュータに関して現役第一線で仕事をできるのもこの大学時代、青木先生との出会いがあったからでした。二十歳前後(考えてみるともう三十年もたつのですね)ですから、頭も働いて、すっかりプログラマーになり、教員になってからも、教育用ソフトを開発するまでの力をつけることができました。
 そう考えると私の今があるのに一番大きな影響を受けた一人は真賃がいなく青木先生であり、何年も前から、「青木先生が退官する時は、私が祝賀会に携わる。」と言ってきました。昨年の春から準備に入り、二百名以上の同窓生の消息調査、案内の送付、参加の確認など、中心になって事務局作業を続けてきました。今週は、謝恩会の席順、しおりの作成、記念ビデオの作成などに奮闘しております。考えてみるとどの事務作業も私にとっては幾度となくふんだ場数があるので、忙しいけれども、楽しくやっています。会は11日にロワジールホテルで80名を迎えて行います。私はここのところ毎日青木先生とは顔を合わせていますが、何十年ぶりの再会という方がほとんどのはずです。懐かしい同窓との出会い、そして恩師への感謝と、笑顔とそして涙のすてきな会にしたいと準備をがんばっています。
 師と呼べる人がいるって私は幸せだなと思っています。そしてその感謝の会の発起人の中心にいることもできるのも幸せだと思っています。
 子どもたちもこの先、いろんな出会いがあり、別れを経験していくことができますが、「師」と呼べる人に出会い、振り返った時、今の私と同じように、「あの人のおかげで私の今がある。」と語れるようになればいいなあと思っています。