第33号 4月28日

 平凡こそが幸せなのかも

 ノンちゃんが天国に行ってしまいました。ケガともそうでしたが、すい臓が知らない間に進行していたそうです。それが重なってしまい、土曜日の昼下がりでした。
 土曜日の午前中、お見舞いに行って、弱っている姿を見て、前のゴンタの時と同じ目をしていて、「だめかもしれないな」とは薄々思っていました。それがノンちゃんとの最後でした。がんこおやじの会でグランドの整地作業をしながら、頭の中ずっと「ノンちゃん、生きていて。」だったのですが、帰って玄関を開けて、妻の顔をみて、すぐわかりました。
 雨の日曜日、昨日の今頃はまだ生きていた。一週間前の土曜日の朝は元気にまだ走り回っていた。どうしようと戻ってこないのにそんなことを考えています。(ちょっと涙浮かべながら書いているなんておかしいでしょ。)
 桜並木の桜は、静かな雨を受けて、とってもしっとりと美しく咲いていました。いつものように歩きながら、「ノンちゃんに桜見せたかった。」、「ノンちゃんいない。」「ノンちゃんと桜並木歩きたかった。」そんなことばっかり考えていました。桜がきれいなほど、つらくて、悲しかったです。
 ノンちゃんとはたった九か月しか過ごせませんでした。でも九か月の間家族として、とってもとってもかわいがりました。そしてノンちゃんはそれに応えてすくすくと大きくなりました。しつけもまあまあできて、とってもいい娘でした。でも、おてんばで、机の上の甘いおやつなどを誰もいない間にペロッと平らげていたり、そんな積み重ねが悪かったんだと思います。ノンちゃん、ごめんね。そして、ありがとう。きっと天国で、先代のゴン太と、楽しく私たち夫婦のことを話しながら花いっぱいの野原を走り回っていることでしょう。
 さて、「失ってわかるありがたさ」とよく言われますが、ペットでも、家族でも、物でも、健康でも、それがなくなってしまったり、壊れかけてしまったりした時に、そのありがたさがわかるというのは本当に今そう思います。
 今、皆様のご家庭は、平凡でしょうか。もしそうであったら、最高の幸せです。小さなことで、イライラしたり、人といがみあったりしないで、笑顔で平凡な毎日を胸をはって過ごしてほしいなあと思います。
 そして、ちょっと前のひばりにも書きましたが、「ひそかに忍び寄ってくるもの」、今回のノンちゃんの病気もそうですが、家族の体調のちょっとした変化、家庭の中のちょっとした不協和音など、小さなことでも「あれ、そう言えば、以前とちょっと違うなあ。」と気がついたら(毎日少しずつ進むものにはとっても気が付きにくいものです)、誰かに相談するとか、診察を受けるとか、傷口が小さいうちに措置を講じることが大切だなあと思います。
 私は教師ですので、月曜日、子どもたちには生命の尊さについては、お話していきますが、感情ばかりで、自分でもよく分からない状態です。もう一晩眠ると多少は落ち着くかもしれませんね。