第246号 3月7日
笑うことと笑われること
「笑う」、「笑顔」などという言葉が出ると、ちょっと安心しますが、同じ笑うでも、対象が逆になる「笑われる」ということになると、意味は全く異なってきます。
少し前のことになりますが、子どもたち同士の中で、他の子の作品に対して、笑った(本人はそういう相手を愚弄(ぐろう)した意図は全くなかったのですが)のです。ところが、笑われた(と本人が思っている)子は、そのことが心にぐっさりときて、一日しょげていたような感じでした。
「笑われる」。直接的に否定的な言葉を言われたり、指摘されたりするよりも、何も言わず、直接的または間接的に、「笑う」ということは、何にも増して、時として相手が傷つくことがあります。
場を和やかにする意味でにこやかにしても、それが、返って逆効果に働いてしまう「笑い」もあります。
笑いって、とても大切なことであると同時に、とても怖いものでもあると感じました。
百マスの勝負
私も若い気を出して、子どもたちと競ってみました。朝学習の開始が8時10分で打ち合わせが15分なので、5分だけつくことができます。
昨日はたし算勝負です。「今日は先生もやるからね。みんなと勝負だよ。先生に勝てそうな人、手をあげて。」数人の手があがりました。「よーい、ドン」私も、余裕をかけている暇はありません。一心にやりました。1分31秒。かろうじてトップでした。2秒後、子どもで一番速い子、そして次々に手があがります。「キャー、ギリギリトップだわー。」一年生の子ども相手に、喜ぶのもなんですが、ちょっと優越感に浸っていました。答え合わせで、R君「先生の百マス、一問間違ってたからね。」しっかりチェックされていました。
次の日は、引き算。今日も聞きました。「先生に勝てると思う人。」昨日よりも確実に多くの手があがりました。
「よーい。ドン。」「負けてたまるか」と思いながらも、8を引く段でまごまごしてしまいました。「やばい」と思っていたら、私より速く次々手があがります。必死に百マスをやりながら、タイムを子どもたちに伝えました。結果、私より速かった子は7人。すごいなあと思いました。
でも、悔しさがなかったといったら嘘になるかもしれませんが、とっても私はうれしい気持ちになりました。脳の中がだいぶ衰えてきたとは言え、社会の第一線で活躍している大人。それも一応学校の先生。子どもたちには、「あっぱれ。」と言いたいですね。よくここまで、計算力がついたなあと思いました。親が子どもにいろんな意味で超される時の嬉しさと似た気持ちになりました。私の計算力を超す超さないというよりも、ついこの間まで、2+3とかやっていたのにもうこんなにまで育った子どもたちの計算力。たった六歳、七歳ですが、その脳の発達というものは素晴らしいなあと思います。
子どもたちそれぞれ能力が違いますが、一人残らず日々の練習で計算力が向上しているということはデータからも確かに裏付けられています。
百マスについては、毎日の子どものデータを全てパソコンに入力しています。これだけ毎日続けた実践は私にとっても初めてですし、他の学校でもそんなにないと思います。いつになるかわかりませんが、百マス計算についての考察みたいなレポートをどこかで発表できればと思っています。