第229号 2月20日

 イチゴ凧の思い

 私の通った東高校の美術教室の片隅に飾られていた「イチゴ凧」。もう卒業して30年近くも経ち、校舎も校名も変わりましたが、その時、美術の授業で凧づくりを勉強するに当たって、担当の梅谷先生(現在も連凧で有名です)がしみじみと語ってくれたイチゴ凧に秘められたお話が、凧と関わった時必ず思い出すのです。遠い昔の思い出ですが、聞いて下さい。

 その女の子は、美術部に入っていました。顧問が凧作り名人の梅谷先生ということもあって、美術部と言えば、凧づくり。連凧や立体凧など、大作の制作に取り組む毎日でした。美術室廊下には、所せましと歴代の大立体凧が天井から吊るされています。
 その年、部員達は、文化祭にあげるため、夏休みが始まる頃から、大きなイチゴ凧作りに取り組んでいました。骨組を作り、しっかりと留め、そこにビニールを貼っていきます。「何か、最近疲れやすい。」という症状を訴えることが多く、その子は、精密検査を受けに行きました。その結果は小児がん。当時は不治の病とされていました。次第に通学する体力もなくなり、入院を余儀なくされました。ベッドの上でも考えることは、「イチゴ凧、どの位できたかしら。青雲祭には私も凧を揚げれるように良くなるかしら。」不安と期待が入り混じった気持ちで、病と闘っていました。ところが、彼女のそんな期待もむなしく、病状は悪化するばかり。立つのもゆるくないという状態にまでなってしまいました。
 青雲祭は、もう少し。このままでは、外出さえできるような状態ではありませんでした。両親は、お医者さんとも話し合い、その子に高校生として最後の青春の情熱を燃えさせようと考えました。
 文化祭の前日、ご両親は女の子に話しました。「明日は、先生に特別に外出の許可をいただいたので、学校に行ってみましょう。みんなもきっとあなたが来るのを待ってると思うわ。」、女の子は目に涙をためてうなずきました。
 いよいよ、当日。車いすに乗せられて、ご両親の車で、東高校の文化祭、青雲祭に出ました。美術部の仲間も、みんなで出迎えました。「さあ、イチゴ凧を揚げるぞ。」梅谷先生の掛声で、部員は凧を持ち、「そーれ。」で風に乗せます。凧はしだいに大空を舞う風にのり、高く高く五稜郭近くの大空にあがっていきました。その時です。その女の子が車いすから立ち上がったのです。「ねえ、お願い。私にも、糸を持たせて。」友人らと一緒に、凧上げをしました。誰もの目が涙でぐしゃぐしゃでした。
 その子の手からすーっと力が抜け、意識を失ってしまいました。すぐに救急車が呼ばれ、病院へ戻りました。訃報が先生のもとに届いたのは、それから遠くない日でした。青雲祭の当日、お医者さんとお父さん、お母さんは、娘の最後の願いを叶えようと、痛み止めの最終手段としてモルヒネの注射をして、外出許可を出したのでした。
 後日、ご両親は、娘の写真と共に美術室を訪れ、娘が娘らしく、最後の青春の日々を完全燃焼し、短かったけれどもとっても充実していたことを報告に来て下さいました。

 あのイチゴ凧。もう、心の思い出の中にしかないのでしょうが、凧を見ると、美術室の片隅のあのピンクの凧を必ず思いだすのです。
 一部脚色しながら、綴っておりますことをご了解ください。